弓・立禅

オイゲン・へリゲルの「弓と禅」を読んでいた。ドイツの哲学者である著者が弓道の師の元に弟子入りをした当時のことを書いているものである。

弓を的にあてるのではない、「それ」が的にあてさせるのだという。だから的にこだわってあてようとしてはだめだ。ただ自分を引き離しなさいということを言われ続けて苦悩する本人に師が暗闇の中で、弓をひくという場面がある。

「師範は礼法を舞った。彼の甲矢は輝く明るみから真っ暗い闇の中へと飛んでいった。炸裂音で私はその矢が的にあたったことを知った。乙矢もまたあたった。電灯をつけたとき、甲矢が黒点の中央に当り、また乙矢は甲矢の筈を砕いてその軸を少しばかり裂き割って甲矢と並んで黒点に突き刺さっているのを見出して私は呆然とした。・・」

師は当然のことながら的をみていない。けれどもそれを射ることができるのは自分ではなく「それ」が射るからであるという。だから自分を引き離しなさいという。

正しい「射」ができて「それ」が現れた時、「それ」を仏陀と同じようにとらえて頭をさげる。

著者は6年かかってついに業を習得する。そこに禅の意味を悟るのであるが、こんなにしびれる本を読んだのはいつぐらいぶりだろうか。

自分の中の何かにコツンと当たったような気がした。けれどもそれが言葉にならない。禅というのは経験からしか分からないもので、頭で考えてもどうにもならないものなのだろう。体の奥がうずくような、それを自分の手でしっかりとつかんでみたいそんな衝動を覚えた本だった。
by m_alchemia | 2005-08-30 22:10 | 日々の想い