ダライ・ラマのお話(続き)

 あらわれとは誤りなく縁起するものであり
 空とは自性を受け入れないことである
 この二つの理解が別々にあらわれている限りは
 まだ成就者(仏陀)の真意を正しく理解していない

先日のダライ・ラマ来日法話でいただいた資料の一節です。
形あるものは形のないもの(空)と完全に依存をしあっているので、
別々に存在することはありえない。形は空なしで存在することは
できない。また空は形があるものの土台があって、初めて現れうる
ものであり、空が空だけで現れるということもない。というお話です。

すべてに神が宿っている、という表現がこれに近いと思いました。
神が宿らないで形だけが現れるということはありえないということ。

同時に神は必ず実体と共に実体の中に現れるということだと思いました。

 ・ ・ ・ ・
 (この二つの理解が)いつの日か交互でなく、同時にあらわれ
 縁起に偽りがないことを見ただけで
 認識対象には(実体があるという誤った)とらえかたをすべて滅したならば
 その時こそ(空の)見解の分析は完全なものとなる

因果を通して空をみる。それを続けていくことでとらわれていた実体がなくなっていく。

ダライ・ラマ法王はこのことを「私といって自分を指差すとき、その『私』はどこに
ありますか?」という質問で投げかけていらっしゃいました。

私とは頭ですか?胸ですか?『私』という実体はどこにあるのでしょう?
『私』とは目に見えないものです。
しかしもし肉体としての形がなくなってしまったら、指し示した『私』も
なくなってしまうでしょう。

そのように実体と空は完全に依存しあっているのです。・・・・・

よくわかる。わかるようでいて、わからない。(^^;)
そしてこのことを何度も時間をかけてじっくりと考えてみてほしいということだった。

そこに解脱への道があるということだった。
そしてそれは奇跡のコースでいわれる「この世界は非実在である」ということと
全く同じだと思ったのだった。

実体そのものをみるのではなく、実在と非実在との間の「関係性」を認識していくこと。
縁起の見解の理解を得られたときに空を理解することができるとはそういうことだろう。

よくわからないなぁ・・・ちょっと難しいなぁ・・では
終わらせたくないと思う。

これを理解すること、それだけが人がこの地上に生まれた理由だと
そんな風にも感じているし、
私の心の中にかつて芽生えて今でも消えることのないもの
「日常の中に非日常をみる」ということにつながっているのだと感じている。


*本日もお読みくださいましてありがとうございます。
by m_alchemia | 2009-11-08 08:35