神と悪魔と2

私はフィリップ・カモワン氏が言っていた「神は犠牲を喜ばない」(表現は正確ではありません)ということが非常に印象に残っている。

ここで言う神も悪魔もそれぞれ自分の心の中の2面を象徴しているものであり、自分の外にそういう存在がいるといっているわけではない。

片方はこの世界は2つに分けられると信じている意識である。何かのためには何かの犠牲が必要であるという考えは、見方を変えれば「私の幸せは誰かの犠牲の元に成り立っている」という考えにたどり着く。そう思ってしまう。心の中の悪魔がそうささやくからである。

だから幸せであり続ける以上、常に罪悪感がついてまわる。
けれども、不幸せを感じたら感じたで、自分がなにかいけないことをしたからではないかと
罪悪感がついてまわる。

ああ、これは私のことなのだけれども(^^;)
こうして考えてみるに人間というものはとかくめんどくさい生き物だなぁと思うのだ。

「誰かが得をするということは誰かが損をするということだ」「仕事のためには家族を犠牲にしてもしかたがない」「家族のためには自分を犠牲にしても仕方がない」・・・そうして連鎖していく考えのベースにはこの世界には2分されているという考えがある。が、悪魔のささやきをベースにしている以上、いくらそれを繰り返しても出てくる答えは真実にはたどり着かず、ただただ不毛なだけなように思う。

そうしてもうひとつの意識はすべてはひとつであり、すべては愛であるというもの。
ここには犠牲は存在しない。

すこし話が変わるが、
努力という意味を取り違えている人が多い、という文章に目が留まった。

努力とは順応することなのだと。
寒い日に体を温めるように「努力」をする。風邪をひかないような体をつくるように「努力」を
する。そうすれば寒い日に「順応」することができるようになる。

寒い日にただ歯を食いしばって耐えることは「努力」とは言わない。
それは単に我慢かあるいは罪悪感から来る何かか、勘違いの犠牲だろうと思う。

私は「恭順」という言葉が好きだ。
宇宙の、自然の摂理に心から従って生きること。
その摂理に「順応」するべく努力をしたいものだと思う。
by m_alchemia | 2008-03-25 13:59 | 日々の想い