好みと価値観

電車の中で広告を眺めていた。「九州」という字を眺めながら、なんて形のとれた美しい字なのだろうと感じていた。漢字って綺麗だなぁ。

以前書いたことがあるかもしれないが、「美」という字をそこに来ていた人たちに書いてもらい、その字を一斉に貼りだして、どの字をもっとも美しいと感じるかということをやったときに小学生も大人も、普段漢字にふれることのない外国人であってもそのほとんどが同じ「美」という字を美しいと感じるということが書道家の人の本に書いてあった。

「美」という漢字の均衡、伸びやかさ、勢いなどに無理のない形というものがあるのだろう。

こういう話を聞くと、人が美しい、心地よいと感じるものや本当に求めているものには実はそれほど違いがないのではないだろうかとも思う。

最近は「人にはいろいろな価値観があるから」という理由でお互いが歩み寄ることを避ける場面も増えてきたけれども、その価値観をさらに一歩踏み込んでよくよく聞いてみれば意外にも同じこと、つまりは「人はもっと愛されるべきだし、私という存在はもっと理解されていいはずだ」という共通の気持ちに行き着くことも多い。いろいろな価値観といっても根ざすところは同じなのだなぁと思うのである。

もっとも人の好みはさまざまである。関心ごとだって、取り組み方だってたいていはその好みを反映しているものだ。日によっても好みはころころと変わっていく。しかし好みと価値観は同じではない。人が目指す理想の形には好みの差こそあれ、それほど価値観の違いはないのではないか、と思うのである。

「九州」をみて電車に揺られながら考えていたことはそんなことだった。美しいものを素直に美しいと思える感性を、それを生きていくことの勇気と忍耐力を常に持ち続けていきたいと思ったのだった。
by m_alchemia | 2006-09-07 19:01 | 日々の想い